2005年 06月 29日 ( 1 )

諸行無常の響

「義経」はなんだかなあ。
連続ドラマというのは、毎回で起承転結を作らないとやはり駄目なのだろうか。
源平の長い歴史のなかには、中だるみがある。たいした事件もドラマもない時期がある。以後の伏線として意味をなすことがあっても、そのときは退屈な時期でしかない。その中だるみをドラマチックに、一話として完結させようとするやり方。ムリヤリに盛り上げようとする演出が寒い。「新選組!」にもそういう所があった。毎週の視聴率で評価されるのだから、仕方のないことなのかもしれないが、なんだかなあ。

長編の歴史小説には、退屈な中だるみがある。時代小説との違いはそこだと思う。
歴史小説と時代小説の差異はどこにあるのか知らんが、私は勝手にフィクション性の高いものを時代小説、史実の中だるみをカットせずに書かれたものを歴史小説、と解釈している。

長編の歴史小説は、苦痛なほどに退屈な中だるみがある。「興味ねえ~」と身もだえしてしまうような状況説明が入ったり、どうでもいい人物の人となりを描いたり。
しかも終わり方が必ず尻切れトンボだ。ハッピーエンドがなくて消化不良に終わる。いわゆる“盛者必衰の理”で、人に寿命があるように、栄え続ける時代などないからだ。

しかし読み終えてみると、歴史小説は心に残る。退屈を克服した喜びもあるかもしれん。そうかもしれんが、それだけでもない気がする。

現実とは、意味ありげで実は意味がない「ノイズ」によって構成されている。「ノイズ」をカットし、飲み込みやすい「物語」に体裁を整えてゆくのは大人のワガママだという気がする。
私はノイジーなリアルを語れる作家になりたい。そのためには世界に意味なく飛びかう「ノイズ」を拾い、その向こうに意味を見たがる人々に「いいって。人間のやること全てにいちいち意味なんかなくていいって」と、正直に言う勇気が必要なのだ。
その勇気はかつては「絶望」と呼ばれたのかもしれない。うるせえよ。知ったことじゃない。
―松尾スズキ

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by disgust | 2005-06-29 21:30 | 映画とか本とか